歴史上、朝鮮半島には様々な王朝、国家が存在していました。
中でも、一番長く続いたのが「朝鮮王朝」です。
朝鮮王朝には、朝鮮王朝初代・太祖(李成桂)が1392年に興し、その後1897年に「大韓帝国」と改称し、1910年、韓国併合ニ関スル条約(通称「韓国併合条約」、韓国では「韓日併合条約」)に基づき日本に併合されるまでの間、27人もの王が君臨していました。
この記事では、朝鮮王朝の27人の歴代王について紹介します。
- 朝鮮王朝の歴史
- 朝鮮王朝の仕組み
- 朝鮮王朝歴代の王について
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朝鮮王朝における身分制度
一般的に朝鮮王朝における社会の身分階級は、
- 王族・貴族
- 両班(官吏登用制度である科挙によって登用された文官・武官の高い官職、儒教の学者を出した一族)
- 中人(低い官職、門地と呼ばれた家柄の高い人、教育を受けた人など。両班の下で実務を担当した)
- 常民(普通の庶民。学ぶことが禁止されており、衣服は白のみとされた)
- 賤民(僧侶、胥吏、女官、妓生、医女、男寺党、奴婢、白丁など)
と分けられます。
太祖が朝鮮王朝を興した際、それまで朝鮮半島を支配していた高麗で行われていた仏教に基づく政治体制から、儒教、特に高麗末期に改革派が学んでいた朱子学に基づく政治へと転換をはかりました。
朱子学では、上下関係を大切にし、身分制度を守ることに重きが置かれています。
朝鮮王朝で用いられた官吏登用制度である「科挙」は、朱子学の教えに基づいた試験であり、それに合格した両班たちは朱子学に基づく国家の担い手になりました。
官吏だけではなく、地方にも朱子学を学ぶ学校を作るなど、朝鮮王朝においては民衆レベルにまで朱子学の教えは広まっていきました。
その結果の一つの表れが、この確固たる身分制度と言えるでしょう。
宗教に基づく身分制度、というと堅苦しく感じてしまいますが、現代の韓国における「先祖を崇拝し、親孝行を尽くし、年長者を敬う」姿というものは、この時代の朱子学の教えから来ているものとも言われます。
ただ、男尊女卑の考え方も朱子学に基づくものであり、どの身分においても女性は男性より低く見られていたようです。
王について
朝鮮王朝における厳格な身分制度の頂点にあたるのが王です。
それぞれの王の名を呼ぶことは憚られ、存命中は「殿下(チョナ)」と呼ぶのが普通でした。
王と同じ名前の漢字を使うこと自体も畏れ多いとされたので、一般の人々が王の名前をうっかり書くことのないように、普段使わないような難しい漢字一字を用いたといいます。
そして現在、各王の名と広く知られているのは諡(おくりな)で、死後につけられた名前であり、生前に呼ばれることはありませんでした。
この諱(いみな)にはそれぞれ、「祖」、「宗」、「君」のどれかが最後についているのですが、これは在位中の功績によって変わっています。
- 「祖」がつく王は、当時の人々にとって「多大な功績を残した」王
- 「宗」がつく王は、「徳があった」王
- 「君」がつく王は、在位中に追放された王
長い歴史の中でたくさんの王がいますが、名前に着目してみるだけでも当時の人々にとってどんな王だったのか想像できますね。
記事内の歴代王紹介のパートでも沢山出てきますので、覚えておいてください!これが分かれば王の名前を見るだけでレベル感が分かるようになります。
党争について
朝鮮王朝ではどのような時代も政治党争はたえることがありませんでした。
ドラマなどでもよく題材にされますね。
政治党争の要因の一つは儒教、朱子学です。
この教えの中では「一族は常に団結していなければならない」というものがあります。
血縁関係で繋がって団結すればするほど他の一族との対立は自ずと生まれてくるもので、名門とされる一族であればあるほど、党争は止まなかったと言います。
特に朝鮮中期において中央の高級官僚である勲旧(フング)派と、地方両班から官僚になった新興勢力の士林(サリム)派の間で激しい抗争が起こりました。この抗争が朝鮮王朝の弱体化につながっていった要因の一つであるとされています。
国をまとめるために用いた儒教、朱子学ですが、これがきっかけとなり朝鮮王朝の歴代王はずっと悩まされていた。というのは何とも皮肉な話ですね。
歴代王の紹介
それではここからこの記事のメインである、朝鮮王朝の27人の歴代王について、それぞれの王に着目して紹介していきます。
それぞれ王にキャッチコピーも付けてみました!
初代 太祖(1355年〜1408年) 在位:1392年〜1398年
「朝鮮王朝を興した朝鮮王朝において重要な人物であり、晩年は自分の息子たちの争いに巻き込まれた王」
朝鮮王朝初代王である太祖は、元々は高麗(こうらい)において、一度も敗れたことがないことで有名な名将でしたが、高麗に対しクーデターを起こし政権を掌握、高麗の王家一族を根絶やしにし、朝鮮王朝を興しました。
朝鮮という国号をつける、首都を漢陽(現在のソウル)に定めるなど現在に通じる朝鮮王朝の基盤を作り上げていったものの、次期王位をめぐる自らの王子たちの争いが起きるなど問題も抱えていました。(1398年第一次王子の乱、1400年第二次王子の乱)
晩年は仏教に精進していたそうです。
第二代 定宗(1357年〜1419年)在位:1398年〜1400年
「時代を読み、「家族殺し」の弟の罪を世間から隠すために即位した王」
太祖の次男。
もともと王に就く意思はなかったとされています。
しかし、太祖が高麗で将軍として名を挙げている頃から活躍していた弟であり第三代大宗となる太祖の五男が、自分が次期王に指名されなかったことに腹をたて、次期王に指名された末っ子を殺害してしまいます。
この事件により、太祖は王位から降り、その当時一番の年長者であった定宗が王として即位することになってしまったのでした。
定宗は王になったものの、実際に政治を行なっていたのは五男の太宗であったそうで、即位後わずか二年で、正妃である定安王后の願いを聞き遂げる形で王位を譲りました。
第三代 太宗(1367年〜1422年)在位:1400年〜1418年
「家族を殺して王になった男」
一見強引とも取れるやり方で王への道を歩んだ太宗ですが、内乱の原因となる私兵を廃止して軍備を強化させる、政府機構の設置を行うなど、軍政と政務を完全に切り分けることを行いました。
太宗は、教育と科挙の定着にも力を注ぐなど、文化面においても朝鮮王朝の基盤を固めた王でもあります。
女性の治療にあたらせるために、初めて若い女性を選抜、医師として養成し婦人病の治療にあたらせたのも太宗の治世でのことです。
現代的な考えの持ち主であったようですね。
第四代 世宗(1397年〜1450年)在位:1418年〜1450年
「現代に通じる文化の基礎を作った王」
世宗は、太宗の四男。
小さい頃から勉強が好きな子供で、その能力を太宗は大層評価していたといいます。
「訓民正音」いわゆるハングル文字を考案、普及へと進めた王です。
それまでは中国から伝わった漢字が朝鮮半島における文字でしたが、庶民には難しく普及していませんでした。そこで、庶民でも読み書きのできる文字を。と作成したのが世宗であり、ハングル文字なのです。
世宗は、文治のみに偏らず、軍事訓練、火器の開発など国防策も怠らず、朝鮮王朝の歴史的、文化的、政治的基礎をより堅固なものにしました。
第五代 文宗(1414年〜1452年)在位:1450年〜1452年
「人生の大半を世子として過ごすも世宗を支えた王」
七歳で世宗により世子(セジャ・王位継承者)に指名され、長きにわたり世宗を支えました。
文宗は幼い頃から学問を好み、測雨器制作に直接参加するほど天文、易、算術に優れ、初動にも長けていたといいます。
文宗の王位期間、王権は世宗時代に比べ多少萎縮したものの、官の意見を広く取り入れ、在位期間は二年と短期でありながら、寛大な政策を実行していきました。
第六代 端宗(1441年〜1457年)在位:1452年〜1455年
「有能。なれど、若さゆえに王位から転落した王」
文宗の死に伴い、わずか十一歳で即位した端宗は、祖父である世宗がその聡明さを認めるほどでしたが、その幼さから政治を行うことはほとんどできませんでした。
その若さに付け込んだ、伯父であり、次王となる首陽大君はクーデターで政権を掌握し、王の側近らを配流してしまいました。
端宗は危険を感じ王の身から退いたものの、もう一人の伯父、錦城大君が計画した端宗復権計画が失敗し、その責任から庶民の地位に落とされたのち死罪となってしまいました。
第七代 世祖(1417年〜1468年)在位:1455年〜1468年
「甥殺しをしてまで王に上り詰めた、王になるはずのなかった男」
世祖は、朝鮮王朝前期における中央集権体制を確立させることに貢献し、朝鮮史上最も王権が強化された時期と評価される時代を作り上げました。
しかし、甥の王座を簒奪し、その命さえも奪ってしまった呵責に苛まれ続けたといいます。
彼の行動は儒教において許容されるものではなかったため、朝鮮王朝において儒教ではなく、仏教を重んじた王としても知られています。
第八代 睿宗(1450年〜1469年)在位:1468年〜1469年
「父の犯した罪の呪いで短命であった王」
世祖の子供たちは皆揃って短命でした。甥の殺害、王位の簒奪といった罪の報いだと人々は噂したそうです。
若くして即位した睿宗は、母后である貞熹王后を摂政に政治を行いましたが、在位期間わずか14ヶ月で死去してしまいました。
第九代 成宗(1457年〜1494年)在位:1469年〜1494年
「太平の世を迎えるも、堕落してしまった王」
睿宗の子供たちは皆幼すぎたため、貞熹王后の長子(睿宗即位前に死去)の次男、つまり睿宗の甥が王位に就きました。これが成宗です。
朝鮮王朝体制の安定を図り、民衆にとって開国以来、最も太平な世を迎えることができたといいます。
ただし、治世の後期には王である成宗自らが遊興にふけるようになり、社会全体にその乱れが広がっていったとも伝わっています。
第十代 燕山君(1476年〜1506年)在位:1494年〜1506年
「最悪の王なれど、その生涯はドラマチック」
最悪の暴君、とも呼ばれる燕山君。
踊りも上手く、詩歌を残すなど文芸の才はあったとされますが、燕山君をたしなめた師を殺害する、妓生を千名侍らせるために、国税の半分が使われたともいいます。
統治期間において大量粛清が2度も起きたのは朝鮮王朝において燕山君の時代のみです。
最後は、度重なる悪政に民衆の心が離れていき1506年、クーデターにより王位から廃された後江華島へ流罪、そこで死去しました。
第十一代 中宗(1488年〜1544年)在位:1506年〜1544年
「長きにわたって王位に就くも、兄、燕山君の引き起こした時代を清算しきれなかった王」
追放された前王燕山君の異母弟であった中宗は、クーデターによって王位に就きました。
中宗は、燕山君の政治で乱れた国を立て直すべく動きましたが、治世において大量粛清も行なった結果、結局政局の混乱が起きてしまいました。
倭寇(朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人に対する中国・朝鮮側での蔑称)の襲来、朝鮮半島北部からの他民族の侵入など国防面でも混乱が起きる等、内外において混乱する面も多い治世でしたが、印刷技術の発展に伴い様々な書物を編纂させるなど文化面で功績を残した面も見られます。
38年2ヶ月もの長い間王位についたものの、父王である成宗が作った朝鮮王朝の繁栄期の再興を実現するだけの力は持ち合わせていなかった王です。
第十二代 仁宗(1515年〜1545年)在位:1544年〜1545年
「幼い頃から賢くも病弱。治世が最も短かった王」
仁宗は中宗の長男にあたります。
5歳で世子となり、24年間にわたり世子として過ごしたのち、1544年に王位に就きました。
治世は8ヶ月15日と、朝鮮王朝史上最も短く原因不明の病気に臥したのち、後継を残さず死去してしまいました。
朱子学に深く精通しており、3歳から文字を読むほど聡明であったと伝わる仁宗は、孝行心が深く、兄弟愛も厚かったそうで、中宗が病気で倒れた際には率先して看護にあたったといいます。
一説には、仁宗の死は継母、文定王后に渡された餅を口にしたことであるとされています。
第十三代 明宗(1534年〜1567年)在位:1545年〜1567年
「母の敷いたレールから外れられなかった王」
後継なく死去した仁宗に代わり王位を継いだのは弟であり、11歳だった明宗です。
文帝王后の唯一の息子であった明宗の治世の初期は、母である文定王后と叔父が国政を代行する御簾聴政でした。
仏教信者であった文定王后らによる政治で王の権威は地に落ち、凶作も続いたため、民衆の大半は飢餓に苦しむなど、社会は散々な状況でした。
王后の死去後、明宗は善政を施すことに努めましたが、病気がちとなり、志半ばの34歳で死去しました。
第十四代 宣祖(1552年〜1608年)在位:1567年〜1608年
「豊臣秀吉がいなければ、この治世は磐石だったであろう王」
明宗に世継ぎがいなかったため、中宗の孫である宣祖が15歳で即位しました。
朱子学に傾倒していた宣祖は文治の元、明宗時代の荒廃を収集し朝廷に平和を取り戻しました。
しかし、豊臣秀吉による文禄の役(1592年)、慶長の乱(1597年)、日本史で言うところの朝鮮出兵が起こったことをきっかけに国家財政が危うくなってしまいます。
戦乱からの復旧は困難を極め、56歳で死去することになりました。
第十五代 光海君(1575年〜1641年)在位:1608年〜1623年
「賢者でありながら、兄弟殺しで王位についた王」
宣祖の庶子であった光海君は、文禄の役の最中世子となり、宣祖に代わり政治にあたり、国内の復興に尽力しましたが、次男であるという理由で正式に後継者として認められませんでした。
そこで宣祖死去後、実兄である臨海君を流刑にし自決を迫り、宣祖の嫡子であった弟の永昌大君を殺害するなど、自らの王権を確立させていきました。
外交面、内政における復興計画など精力的に動きましたが、クーデターにあい王位を剥奪、流刑されることとなりました。
暴政を強いた燕山君と同じく、諡が贈られなかった王ではありますが、燕山君とは違い、王に就くまでの過程は血に塗れていますが、善政を行おうとして討たれた悲劇の王とも言えます。
第十六代 仁祖(1595年〜1649年)在位:1623年〜1649年
「苦しみの治世を送った王」
宣祖の孫、光海君の甥にあたる仁祖は、クーデターによって光海君から王位を奪いました。
その治世はともにクーデターを起こした李适による反乱事件、後金(のちの清(中国))による侵略などで社会は混乱していく一方となりました。
仁祖は破綻した国家経済を再建するべく尽力を尽くしていきますが、54歳で死去するまで苦しみの断続であったと伝わっています。
第十七代 孝宗(1619年〜1659年)在位:1649年〜1659年
「清の人質であったことが全てのベース。清を倒すことを目指した王」
仁祖治世における清の侵略の際、仁祖の息子3人、昭顕世子、鳳林大君、鱗坪大君らが人質として連れて行かれていました。
昭顕世子はそこで西洋人と交流、新しい文化と思想を学んでいった結果、帰国後仁祖によって処刑されたのに対し、のちの孝宗となる鳳林大君は徹底した反清主義者となりました。
清の征伐を国家目標に掲げ、軍政改革、軍備増強を推し進め、結果的に王権強化、社会安定の基盤を築くことになりました。
新しい暦「時憲暦」の採用、農業生産の効率化、混乱した社会の倫理秩序を正すため儒教書を刊行するなどその後の朝鮮社会の安定の基盤を作り、40歳で死去しました。
第十八代 顕宗(1641年〜1674年)在位:1659年〜1674年
「父親から一変、平和の時代を作った王」
孝宗が清の人質であった時代に彼の長男として生まれた顕宗の在位期間は、戦乱、大量粛清のない平和な治世でした。
顕宗は、孝宗の定めた北伐計画の中断、日本と清の侵攻によって荒廃していた国土を復旧すべく軍整備を行い、孝宗から引き続いて農業の振興に努めました。
文化面においても、印刷事業育成のため「銅活字」を鋳造するなど業績を残しています。
第十九代 粛宗(1661年〜1720年)在位:1674年〜1720年
「社会混乱は収めるも、女を振り回し、振り回された王」
顕宗の一人息子であった粛宗は13歳で即位しました。
政局では党派間における政争が朝鮮王朝時代を通じて最も激しく、常に党派争いが絶えなかったといいます。
そのような中でも粛宗は、政治能力を発揮し仁祖以来の社会混乱を収拾し、光海君時代から始まった社会全般の復旧作業をほぼ完結させました。
しかし、朝鮮三代悪女に数えられる張禧嬪にまつわる後宮でのトラブルをはじめとした愛憎劇から数多くの獄事を作り出し、その治世に汚点を残した王であるとも言えます。
第二十代 景宗(1688年〜1724年)在位:1720年〜1724年
「母親の影が濃すぎる、党争に悩まされつづた可哀そうな王」
張禧嬪の息子であり、13歳で父親・顕宗によって母親・張禧嬪が自決に追い込まれた景宗は病弱であり、後継に恵まれなかった王でした。
4年2ヶ月の治世の間、常に政権内では権力党争が起こっており、これといった業績を残せることなく36歳で死去した悲運の王と言えます。
現在も日韓の間で論争に上がる独島(竹島)が朝鮮の領土であることが明記された『薬泉集』が刊行されたのはこの時期のことです。
第二十一代 英祖(1694年〜1776年)在位:1724年〜1776年
「長寿であり、功績は多々あれど、息子殺しの王」
病弱であった景宗の異母弟であった英祖は、景宗死去後王位を継ぎ、朝鮮王朝において最も長寿の王となりました。
さまざまな制度改革を行い、特に文化の開花が著しく「朝鮮の文芸復興期」と呼ばれるまでになりました。
功績は多くある一方、政権内の権力闘争をきっかけとして、息子の思悼世子を自らの命令で米びつの中に閉じ込めて餓死させてしまうといった行動に出るなど、歴代王と同じく党争に巻き込まれた王でもあります。
第二十二代 正祖(1752年〜1800年)在位:1776年〜1800年
「父を祖父に殺された聡明な王」
正祖は、英祖によって処刑された思悼世子の息子であり、英祖の孫にあたる正祖は、英祖の名を受け1775年から代理聴政を行ったのち、24歳で即位しました。
王位に就き父の死に関わった者たちを排除すると、党争を避け、親政体制の構築を目指しました。
学問に精通していた世祖は、歴代王の功績を収拾、保管する部署の設置を行なったり、優秀な学者を多く登用、諸学派の長所を取り入れ、それぞれの学風を奨励しながら政局を進めて行きました。
48歳で死去しますが、朝鮮王朝後期の文化的な黄金期を支えた王です。
第二十三代 純祖(1790年〜1834年)在位:1800年〜1834年
「内外に問題が勃発するも、ほとんど何もできなかった王」
13歳で王位を継いだ純祖の治世の始まりは英祖の継妃であった貞純皇后による垂簾聴政でした。
この治政はカトリック教徒の迫害にはじまり、全国的に数万にわたる人命が失われる惨事が相次ぎ各地で民による反乱が絶えなかった時期にあたります。
学問の発展に寄与し、多くの書物を刊行した純祖ですが、これといった政治的野心を展開することなく44歳で死去しました。
第二十四代 憲宗(1827年〜1849年)在位:1834年〜1849年
「学に優れるも世の中の安定に貢献できなかった若き王」
純祖の孫であった憲宗は7歳で即位、14歳まで純祖妃の純元王后が垂簾聴政を行いました。
外国勢力の来航が頻繁に起こったために民心は騒然としており、在位の15年間中9年にわたり水害に悩まされるなど国内外は全く安定しませんでした。
学問を好み、書道にたけた憲宗は複数の書物の編纂、各地の堤防を修築するなどの治績は残しましたが、政治力の不足から、国内外の混乱を収められないまま22歳で死去しました。
第二十五代 哲宗(1831年〜1863年)在位:1849年〜1863年
「農民から王へ。幸運の持ち主かと思いきや、自らの言葉を表せなかった不遇の王」
没落した王族として配流地の江華島で農業を営んでいた哲宗は、憲宗に世継をがいなかったこと、また六親等以内に王族が一人もいなかったため、王位に就くことになりました。
しかし学がないといった理由で純元王后による垂簾聴政が敷かれ、自らの意思を表現したり、実行に移すことのできなかった不遇の王でした。
貧民救済、罹災民救済など民心に気を配っていましたが、自身では何もできないことを悟った哲宗がやがて酒や女に溺れるようになると急速に健康を害し、32歳で死去することとなりました。
第二十六代 高宗(1852年〜1919年)在位:1863年〜1907年
「王から皇帝にならされた男」
対外面で日本や西欧列強が朝鮮を圧迫する時代に入る中、11歳で即位したのが高宗です。
憲宗の父、孝明世子の養子にあたる高宗の治世は成人する1873年までは実の父である興宣大院君が権力を握り、その後は王妃であった閔妃の親族が権力を掌握していました。
宮廷内の権力争い、東学党の乱に発展する官民の争い、日清戦争の結果としての日本による内政干渉など波乱の時期を経た後、1897年には国号を「大韓帝国」と改め王から皇帝に称号を変えましたが、日本からの強要により1907年に退位することとなってしまいました。
第二十七代 純宗(1874年〜1926年)在位:1907年〜1910年
「朝鮮王朝最後の傀儡王」
高宗の長男であった純宗は、大韓帝国が樹立されると皇太子となり、高宗からの譲位で皇帝となりました。
しかし、その内実は親日派勢力による傀儡にしか過ぎず、国家最高権力者としいての王権を全く行使できませんでした。
日本により大韓帝国が滅ぼされたのち純宗は皇帝から王へと降格され初代李王とされましたが、子供がいなかったため、純宗をもって朝鮮王の歴史は途絶えることとなりました。
終わりに
朱子学を基礎に、長きにわたり27人もの王が朝鮮半島を収めてきた朝鮮王朝。
それぞれ時代の違い、周囲の違い、そして性分の違いがありながらも、一つの王朝がここまで長い間治め続けられたということは、朝鮮半島の歴史においても大変珍しいことです。
韓国が近代化の波に乗り遅れたのは朱子学のせいだ。という一つの論調から時代劇が避けられていた時代もあったと言いますが、これだけ様々な王が即位し、時代を彩り続けた朝鮮王朝時代というものは古臭い考え方に溢れた退屈で避けられるようなものではなく、どの時代も実に面白いものである。と言わざるを得ません。
単なる、歴史の事象、歴史上の人物としてではなく、それぞれの時代を作り上げた一個人として、時代を、王を見てみるのはいかがでしょうか。
自分なりの共感ポイントが見つかるかもしれませんよ。
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